学ぶことが人生

勉強が大好き。40過ぎても勉強。語学、読書、仕事等を通した勉強の記録。

『最期の言葉の村へ』ドン・クリック

『最期の言葉の村へ 消滅危機言語タヤップを話す人々との30年』

ドン・クリック著 上京恵訳

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言語学を学びたい私にとっては大変興味深い本だった。しかもタヤップ語は能格言語! 能格が一番私が学びたい分野である。

でも読んでいると、フィールドワークは私にはきついな……筆者ほどに命をかける気にはなれないなあ……マラリアデング熱寄生虫、潰瘍などに筆者は何度もかかったという。よく生きているものだ。そこまで「体を張った」研究は私にはできない気がする。ぬくぬくとした環境で机上で読み書きする程度で甘んじている。

食事もなかなかなじめない内容のグロテスクなことが書いてある。たしかに以下の筆者の主張に私も同感だ。

他人と食べ物を分かち合うのは、社会的関係の構築においてきわめて基本的なことである。差し出された食べ物を拒むのはひどく無礼だ。

その通りだと思う。郷に入らば郷に従えだ。それでもここに書かれている食事で何か月も過ごすことなどできそうにない。筆者、その他の言語学者に敬意を表する。

 

言語の消滅を憂う言語学者のセンチメンタリズムに対し、筆者はこう述べる。

たとえ現地の言語が消滅しかかっているとしても、彼らは依然として自らのアイデンティティを持っている。彼らは今でもガンプ人だ――他に誰になるというのだ?

言語が消滅すると聞くと、一つの文化が消えるような気がするのはなぜだろう。必要がないから消えるのであれば何の問題もない。政治的な抗争で強制的に失われるのであれば話は変わってくるが。

また西欧先進諸国についてこのように述べる。

恵まれた人々は自分より恵まれない人々の生活に関わる責任があるというマーガレット・ミードの主張に、私は全面的に賛成である。

これもいろいろ考えると「関わる」べきなのかどうか悩んでしまう。「関わる」ことで何かしらの影響を与えてしまうと考えたとき、「関わる」ことがはたして善なのかどうか。関わると、未開の地の人々は西洋人に対して「憧れ」を持ちやすい。その「憧れ」が良いことだとは言い切れない気がする。医療面、生活必需品については西洋と共有するのが良いのだろうか? 一概に言えなくて難しい問題だ。